
以前、松輪の切支丹灯籠を知ったのをきっかけにネットで調べられる範囲のことをまとめましたが、断片的な情報の寄せ集めにしかなりませんでしたが、『切支丹風土記・東日本編』(宝文館 1960/5/5)の「相模の切支丹」に情報がばっちりまとめられていましたので、抜き書きを作りました:
★「三浦半島の隠れキリシタン」
http://kumanomi.ferio.net/diary2/archives/10.html
★相模の切支丹(斎藤秀夫)
神奈川県へのキリシタンの布教は、慶長5年(1600)前後から始まり、迫害期の中で広がっていったが、今日では、潜伏キリシタンの事績はもとより、それと見られる何らかの伝承すらとどめていない。また県下に現存するキリシタン遺物の幾つかは、いずれ出来が明らかでなく、切支丹墓と言われる数基の墓碑も、実際には断定することの出来ないものばかりである。
秀吉の天正禁令の後、キリシタンがヴァリニアーノ師の指導によって、コンフラリア(組講)と布教書の出版という、新しい布教の方法をとったことは、迫害・潜伏の時代にも、信仰を支える大きな力となった。と同時に、イエズス会の潜行を教勢の後退と捉えたマニラのフランシスコ会やドミニコ会、アウグスチノ会などが相次いで来日、布教に従うに至って、関東・東北地方にも「生き生きとした火」がともされはじめた。
すでに後北条末期の小田原にはキリシタンの布教が行われていたとも言われるが、南関東への布教は、慶長3年(1598)、フランシスコ会のジェロニモ・デ・ゼスス師が捕らえられて家康に会い、(スペインとの通商の仲立ち、銀採掘の技術指導を求められて)、慶長4年(1599)、江戸に出て、聖霊降臨の日に最初のミサを献げたことによって始められた、と見るべきであろう。
慶長8年(1603)には、「イエズス・キリストの教は、西国に於いてそうであったばかりでなく、関東の諸州それから更に東国にも拡がり、東国の諸州では福音の生き生きした火を感じさせた」と言われるまでになった。
慶長5年(1600)、イギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)は難船して日本に漂着、家康の外交顧問に取り立てられ、今の横須賀市逸見一帯に領地と「890人の百姓を従僕として給せられ」ていた。アダムスは元和6年(1620)、平戸で没するまで、ついに聖公会員としての生活を変えなかったが、逸見時代には宣教師がたびたび改宗のすすめに立ち寄ったようである。慶長10年(1605)、長崎の学林にいたイエズス会の一神父は、家康・秀忠父子に面会するため江戸に上り、そのさい逸見のアダムスらを訪ねた。神父は、新教がこの国に広がることを避けるためにも「もし希望するなら帰国に尽力しよう」とすすめたが断られ、さらに改宗のため百方手を尽くしたが「彼らは依然迷妄を堅く守っていた」という。
慶長16年、スペイン船5隻が、ビベロが受けた好意への謝礼と、日本人商人を送り返すために、浦賀に入港した。この船には大使(セバスチャン・ビスカイノ)と共にフランシスコ会のソテロ師も乗っていた。彼らが秀忠にオランダ人の追放を要求したことから、アダムスらは、逆に彼らの諸港測量が侵略の準備であると幕府に忠告、幕府はこれに動かされて、禁教を厳しくした。
迫害が重なると共に信仰を東北地方からエゾ地にまで広がった。それは、反権力思想と結びついて、中世的な特権を奪われた土豪や、過大な年貢の負担にあえぐ貧農、奴隷労働に苦しむ抗夫、あるいは社会の最下層に追いやられたレプラ患者・エタ・非人のなかに根をおろしはじめた。
約20年間、宗門改役であった井上筑後守は、明暦4年(1658)6月、「切支丹出で申す国所の覚」を書き残したが、神奈川県下には「武蔵国。伊奈半左衛門御代官所、神奈川より、穢多に宗門二十人余り出申し候。相模国。小田原より、宗門二三人も出で申し候。成瀬五左右衛門御代官所、鎌倉より穢多に宗門五六人も出で申し候。」という。
乞食・エタにキリシタンがあった例は同覚え書きでは、武蔵・相模に限られ、特に神奈川・鎌倉のみに記されたエタの信徒は、徳川家康により完全に滅ぼされたという後北条の軽足衆・玉縄衆の配置と関係のあるらしいことが注目される。
県下でキリシタン遺物といわれるものに、次のようなものがある。
●墓碑:箱根早雲寺に三基、三浦市三崎に一基。
●灯籠:横須賀市荒崎荒井部落の旧家、鈴木氏宅に一基。同市長井、毘沙門等に数基。
●マリア観音:小田原真楽寺蔵の懸仏、その他足柄地方に数体。
●マリア像・油絵:国府津宝金削寺蔵。
●オスチア(聖体箱):螺鈿蒔絵(重要美術品)、鎌倉東慶寺蔵。
●こんたす(ロザリオ):東慶寺領12箇所の墓地より出土。
その他、大磯の沢田美喜子氏の収集品は有名である。